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続「アメとムチ」の構図 沖縄タイムズ2010.09.19 Sunday
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http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-07-16_8219
名護漁協組合長で辺野古区行政委員の古波蔵廣には、ワンマンで押しの強い印象とともに、度量が大きく仲間思いの側面も浮かぶ。
辺野古漁港近くにある、移設に反対する区民らでつくる「命を守る会」事務所周辺の敷地について、行政委員会でこんな苦情が出たことがあった。
「反対派の人間がわが物顔で使っているが、船やトイレが置かれている場所の多くは区のものだ。賃料を取るか、立ち退かせてはどうか」
それに対し、古波蔵はこういさめたという。「考え方は違っても、同じ区民じゃないか。区で今使う必要のある土地でもなし、目をつぶってやろう」
普天間移設計画が浮上した当初は、古波蔵も反対だった。1996年には区の行政委員長として初の反対決議をとりまとめ、市長比嘉鉄也が市民決起大会を開く道筋を付けた。
その後、比嘉の受け入れ表明に伴い容認へ転じた古波蔵は、99年に市長岸本建男が移設受け入れの引き換えに政府へ要求した基地使用協定の締結など「7条件」の策定作業にも、市幹部として現市長稲嶺進らとともに携わった。
古波蔵は2歳下の岸本を「一坪反戦地主である自身の信念を曲げてまで、北部の振興のために移設を受け入れた。二度と現れない傑出した政治家」と最大級の賛辞を贈る。
代替施設について古波蔵は「以前、シュワブにヘリパッドがあったときは数百メートルしか離れていない自分の家も相当うるさかったが、何とかなった。新基地ができるとしても、それほど騒音に差があるとは思えない。どれくらいのうるささなら我慢できるか、自分たちの実体験から当たりを付けられる」と主張する。
さらに古波蔵は「どうしても国どうしの約束でここに造るとなったとき、反対ばかりして頭ごなしに負担だけ押し付けられるような事態は避け、少しでも地元の要求を勝ち取っておかなければいけない。でないと、『オジーたちは何してたの』と後の世代に恨まれる。誘致とは違う」と容認決議への思いを説く。
だが、移設反対を断固貫く市長が誕生し、県議会が超党派で県外移設を求め、知事仲井真弘多も地元の意向を尊重する姿勢を見せる中で、辺野古区の容認決議は地元交渉に手詰まり感のある政府に「やはり最後は辺野古しかないんだ」(防衛省幹部)との確信を付与する「誘致のメッセージ」として作用している。
容認派を自認する行政委員からさえ、「政府の正式決定前の決議は、振興策ほしさの物ごいととられても仕方がない。今後の条件交渉で足元を見られるのではないか」と懸念する声が聞かれる。(肩書は当時、敬称略)(続「アメとムチ」取材班)
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